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「兵舎の時代 思い出の絵地図」その他のエピソード

21.08.31
お知らせ

「兵舎の時代 思い出の絵地図」は、下馬が兵舎のまちだった頃の暮らしを体験し、いまも下馬にお住まいの3人の方から伺った思い出話を一枚の絵地図にまとめる企画です。
ここでは絵地図に載せきれなかった兵舎時代の暮らしの思い出をご紹介します。

燃えないほうがおかしい

兵舎の建物は火に弱く、何度も火災に見舞われました。中でも大きな火災は昭和30年3月の夜更けに昭和女子大から出火したものと、同じ年の11月に蘭寮で出火したもの。昭和女子大の火災は隣接していた萩寮に燃え移り、寮は全焼。行き先に困った住人はしばらくのあいだ講堂で避難生活を送りました。女子大の火災はこの時点の戦後都内最大の火災で、号外が刷られるほど社会的に大きな話題に。蘭寮の火災も兵舎を2棟燃やす大火事でした。そうした状況を受けたのか、その後兵舎の廊下には鉄製の防火扉が増設されるなどの対策も取られました。
こどもたちはこうした火事をきっかけに「あそこが萩寮というのか」と知るようで、こどもにとっては自分の住んでいる寮以外の兵舎がどうなっているのか、知らないこともかなりあったそうです。
火事の思い出は他にも教員住宅や高橋湯、共栄パンなど。共栄パンの火災は昭和20年代の半ばで、焼け跡にできた空き地ではこどもたちがローラースケートをしたり、大衆演劇の一座が来て公演を打ったり。
そのようにたびたび起きた火事ですが、廊下で煮炊きをしている生活では「燃えない方がおかしく」、むしろ火事は「少ないほうだった」という印象もあるようです。

 

分校、二部制、新しい学校

当時、兵舎のこどもたちが通ったのは駒繋小学校と中里小学校。駒繋小には菊・松・竹寮といった東寄りのこどもたちが、中里小には梅・桜・萩寮の西寄りのこどもたちが通いました。現在の三軒茶屋小や池尻小の学区に含まれるこどもたちもこの2校に通った上に、終戦から数年が経っても引揚者のこどもが続々と増えたため、昭和20年代後半には二部制が取られた年も。二部制とは、午前に通う子と午後に通う子で登校を分けること。早番遅番とも呼ばれ、1週間ごとに入れ替わりました。午前と午後を間違えてしまうこともあり、昼まで外で遊んでいたら「おまえ今日は午前だよ」と母に引っ叩かれ、給食だけ食べに行き同級生に笑われることもあったそうです。
生徒の増加は引揚者によるものだけでなく、昭和31年開通の三宿通りをつくるときに職人一家のこどもが一時的に何十人も増えたこともありました。ちなみに、三宿通りは自衛隊の戦車が通っても壊れないように大谷石だが御影石だかを埋めてあるとか。
他にも、昭和20年代頭のほんの数年ですが、兵舎内の教員住宅の一階に駒繋小の分校が置かれたこともありました。限られた設備で多くのこどもを受け入れるため、その時々でさまざまな工夫がなされていたのです。

中学は、主に新星中と池尻中。当時の新星中はいわゆる「ワル中学」で、卒業式には警察官が来るというほど。脅されて小遣いを取られたり、先輩たちがナイフを持ち歩いているなど、気の休まらない学校生活でした。池尻中は児童数の多さを受けて昭和30年に開校。昭和17年度生まれの池尻中一期生にとって、先輩のいない学校生活は「ある意味幸せだった」そうです。

そんな小学校と中学校、どちらも兵舎のこどもだけが通ったわけではありません。大人はしばしば「連隊のこどもと遊ぶな」といったのですが、素行が悪いのは決して兵舎に住むこどもに限った話ではなく、「兵舎が悪く見られちゃった」面もあるんじゃないかというお話もありました。

 

昔のあそび、兵舎のあそび

メンコやベーゴマ、ビー玉は兵舎のこどもたちのあいだでも大変な人気でした。あっちの寮でメンコが流行るとこっちの寮ではベーゴマなど、少しずつ違うものが順繰りに流行。ガキ大将のような強いこどもは一度に大量にかけて、勝てばその分大量に獲得。弱い子は取られるとだがし屋で買うのですが、当時の駄菓子屋はベーゴマの買取もしていて、買えるのは売りに出された弱いベーゴマ。また負けて、買って、負けて・・・を繰り返すことに。そんな中で目鼻のきく子はうまく得したり、損しない方法を学んでいきました。そんなベーゴマもメンコも親からすると単なる遊び。見つかると怒られるため「みかん箱に入れて土に埋めていた」子もいたようです。
だがし屋は兵舎のあちこちにありました。菊寮のとなりの「みなとや」や、梅寮の1階、竹寮の2階、松寮裏手の都営住宅の中など。みなとやでは貸し自転車もやっていて、ここで多くの子が自転車の練習をしたそうです。
兵舎には紙芝居屋やアイスキャンディ屋もよく登場。「鞍馬天狗」を見たり、水飴を白くなるまで練ってせんべいをもらったり。アイスキャンディ屋は「♪アイスキャンディアイスキャンディアイスキャンディ」と鐘を鳴らしながら歌っていたのが印象的でした。
野のものを食べるのも当たり前で、駒沢練兵場跡地の農園に植っているイチジクやトウモロコシ、スイカなど、多くのこどもが人目を盗んで食べました。兵舎の中は松の木ばかりでしたが、「食えるものがあればすぐになくなってただろう」とのこと。
自然や地形をつかった遊びも多く、組合事務所の前にあった崖はスキーができるほど。
こうした自然の高低差も、団地を建てる際に整地されて多くが見えなくなっていきました。
ちなみに兵舎はあちこちに防火水槽がありましたが、かなりの深さがあり死亡事故も起きているので、そこで泳ぐことはなかったそうです。

 

遠出とアルバイト

兵舎のこどもたちは遠出して遊ぶこともしばしば。玉電に乗って多摩川に行ったり、二子玉川に遊園地ができたと聞いたらお金を出し合って行ってみたり。節約のために歩いていくこともあれば、ひょいっと乗ってお金を払わずに行ってしまうことも。江ノ島もよく行った場所のひとつで、島の周りを一周泳がさせられたそう。これもまた先輩命令の遊びです。
そうやって遊ぶお金は、自分たちでバイトをすることでも工面していました。大船撮影所での映画のエキストラや、豆腐屋、納豆屋、新聞配達、東映フライヤーズの野球場でジュース売りのバイトなどなど。近所のおばちゃんや先輩の紹介でどんなバイトもやったそうです。ジュース売りは特に稼げて、それで珠算の学校にいったり柔道を習ったりしたというお話も。中にはお金をお母さんに取り上げられてしまう子もいたそうですが。バイトもまた、こどもにとってはあそびの一種でした。

買い物やお風呂屋さん

世田谷郷には、組合事務所や南部協同組合、他にも細々とした建物をつかったたくさんのお店が点在していました。肉屋、魚屋、八百屋、乾物屋、布団屋、米屋などなど。数軒が長屋にまとまっているスタイルも多く、普段は住んでいる寮に近いところで買い物するのが一般的でした。
中学生くらいになると、お昼は自分で買って食えという家も。学校帰り、組合事務所でコッペパンを買い、肉屋でコロッケやハムをはさんでもらって昼飯にするなんてこともありました。大人にとってもこどもにとっても、店は身近な存在でした。

もうひとつ、暮らしに必須だったのがお風呂屋さん。兵舎の銭湯というと高橋湯、高砂湯、弘善湯です。高橋湯は兵舎を利用したもので、あったのは戦後のほんの数年だけ。高橋湯がなくなった後に同じ経営者が高砂湯をつくり、こちらは長いこと地域の銭湯として愛されました。弘善湯もかなり古く、こどもの頃にはあったそうです。
こどもたちで連れ立って、手ぬぐいと石鹸だけ持って銭湯へ。番台のおばあさんが居眠りしてればこっそり入ってしまったなんて話も。番台が高くこどもの身長は見えにくかったのです。冬は、帰り道に手ぬぐいを振り回していると凍って棒になり、それでチャンバラごっこをしながら帰ってきたという思い出も。
ちなみに当時の男の子の髪型は多くが坊主。兵舎には床屋やパーマ屋も多く、そういうところでお世話になる子もいましたが、多くは親や、近所の上手な人に30円ほど払ってバリカンで刈ってもらっていました。

 

兵舎の運動会

昭和25年頃に戦車が撤去されたあと、菊寮の北側のグラウンドでは毎年秋に町会の運動会が催されました。グラウンドは200メートルほどあり、競技はパン食い競走や芋飴を探す競走など。ノートや日本手ぬぐいなど、勝つと景品がもらえるので、こどもも大人も景品を見てから参加しました。老若男女入り混じった寮対抗戦で、まさに兵舎の運動会でした。
また、グラウンドでは野球も盛んに行われました。寮ごとに野球チームが組まれ、対抗試合は普段接することのない他の寮のこどもたちとの交流の場に。野球の盛り上がりは下馬アパートになった後も衰えることはなく、多い時には14チームが活動していたそうです。スポーツを通した地域交流はその後の町会活動にも脈々と受け継がれていったのですね。

 

都営住宅の生活

隙間にどんどん建てられていった平屋の都営住宅。そこでの暮らしはどのようなものだったのでしょう。
2世帯で1軒の「ニコイチ住宅」で、見た目は今の一軒家に似ていますが、水道は屋外、6軒でひとつでした。他の家族が使っているときは終わるまで待っていないといけません。都営住宅もやはり共同生活だったのです。
ただそれぞれの住戸に比較的広い庭がついていて、柿の木や梅の木を植えたり、家庭菜園をつくることができたそうです。ちなみに火災のあとに作られたプレハブ住宅は都営住宅よりもっと簡単なもので、より一時的なものでした。
そんな生活の中、昭和33年、蘭寮のあった場所に都営アパートの1・2号棟が誕生します。次々と兵舎が都営アパートに建て替わり、兵舎や都営住宅に暮らしていた人々も割り当てられた棟に入居。それはそれは「画期的」なものでした。

 

夜の兵舎

夜、兵舎は決して明るい場所ではありませんでした。中学のときに肝試しで入ろうとした、けれど怖くて門柱のところで引き返したと三軒茶屋の友人が語っていたというお話も。暗さだけでなく「連隊(=兵舎)は怖い場所」というイメージもあって、外の人にとっては兵舎全体が独特な雰囲気のある場所だったのではないかと伺えます。
一方で、兵舎の窓からはそれぞれの部屋のあかりが漏れていたのと、平屋の都営住宅の明かりもあったので、中心通りはそれなりに明るかった気がする、という声も聞かれました。